商品の説明
戸田城聖の後を継ぎ、創価学会第三代会長となった山本伸一の峻厳な「弟子の道」が綴られている。
日蓮大聖人の仏法のヒューマニズムの光をかかげて、世界を舞台に繰り広げられる民衆凱歌の大河小説。
※ 新旧御書対照表はコチラ
【各章の概要】
【「母の詩」の章】
1976年(昭和51年)の8月末、山本伸一とフランスの作家アンドレ・マルローとの対談集『人間革命と人間の条件』が発刊された。
また、同月半ばから10月上旬にかけて開催された関西や神奈川など、方面・県の文化祭は、「人間革命の歌」とともに、
人間讃歌の絵巻を繰り広げた。9月5日に行われた東京文化祭に出席した山本伸一は、彼の詩に曲をつけた「母」の歌の調べに耳を傾けながら、
世界中の尊き母たちへ感謝の祈りを捧げるとともに、彼の母である幸を思い、心で唱題した。実は、この日、老衰のため床に就いていた母の容体が、
思わしくないとの連絡があったのである。2カ月余り前、危篤状態に陥り、奇跡的に一命を取り留めた母は、伸一に語った。
「皆さんが待っておられるんだろう。私のことはいいから、心配しないで行きなさい」と。その母の心を体して、この日も、崩れた5段円塔に
再挑戦した男子部員らに励ましの伝言を贈るなど奮闘し抜いてから母のいる実家へ。容体が急変した母の手を握り、80年の来し方を思う。
苦労に、苦労を重ねてきたが、健気に信心に励み、最後に「日本一の幸せ者」と言い切った母。翌朝、母は、安らかに霊山へ旅立つ。
9月14 日、伸一は静岡県の東海研修所に先師・牧口常三郎を顕彰する牧口園を訪問。さらに、10月25日には恩師・戸田城聖の故郷・厚田村に
建設される戸田記念墓地公園の着工式に出席。11月には、北陸を訪問し、石川文化会館に戸田記念室を、富山文化会館に牧口記念室の設置を提案。
関西牧口記念館の開館式にも臨み、歴代会長の遺徳を宣揚し、その精神を伝えるために全力を尽くす。
【「厳護」の章】
青年の育成に全力を注ぎ、常に青年が一切の活動をリードしてきたのが、創価学会の伝統である。伸一は、21世紀まで4半世紀を切った今こそ、
青年の育成に、本格的に力を注がねばならないと考えていた。1976年(昭和51年)晩秋の夜、本部周辺を巡回していた会館等の警備にあたる
「牙城会(がじょうかい)」の青年に出会うと、一緒に建物の隅々まで点検しながら、絶対無事故を期す基本を徹底し、学会厳護の精神を訴える。
11月、登山会の輸送を担ってきた「輸送班」を発展的に解消し、諸行事の運営・整理など、一切の責任を担う「創価班」が発足すると、伸一は、
翌年1月6日に「創価班総会」の開催を提案。この日は、23歳の伸一が、戸田城聖から公私にわたる後事を託された日であることを知ったメンバーは
奮い立つ。77年(同52年)「教学の年」が明ける。新年勤行会終了後、伸一は次々と記念のカメラに納まり、「白蓮(びゃくれん)グループ」の
メンバーも激励。藤色の制服に身を包んだ彼女たちに、民衆奉仕の精神と「冥の照覧(みょうのしょうらん)」への確信を語り、励ます。
一方、聖教新聞の元日付から、伸一の「諸法実相抄」講義が始まり、『大白蓮華』の1月号から「百六箇抄」講義の連載も開始されるなど、
仏法研鑽の息吹が学会に満ち溢れる。伸一は、1月15日に大阪で開催された教学部大会で、仏法の法理を現代社会に展開し、未来創造の新思潮を
形成するため、“宗教のための人間”から“人間のための宗教”への大転回点が仏教の発祥であったことなどを訴える。
【「人間教育」の章】
この1977年(昭和52年)、学会は、広宣流布の主戦場である第一線組織の強化に取り組む。伸一は、各部大ブロック幹部の勤行会に出席し、
仏法への大確信を打ち込んでいく。1月29日の婦人部に始まり、31日には女子部、そして、壮年部、男子部と続き、その流れは、3月に入ると、
ブロック幹部の勤行会へとなっていく。伸一に代わって勤行会を担当する最高幹部との懇談では、全同志の功徳と歓喜の実証こそが、組織強化の
要点であることを訴える。
2月6日夕刻、創価学園生との懇談に続いて、第1回となる東京教育部の勤行集会に出席。創価の源流を継承する教育部が61年(同36年)に誕生して以来、
伸一は、その育成に全精魂を注いできた。総会と聞けば、万難を排して出席し、万感の思いを込めてメッセージを贈った。勇んで立ち上がった教育部員は
それぞれの場で人間教育に奮闘。実践報告大会の開催や体験談集を発刊していく。また、地域では教育相談室を開催し、社会貢献の大きな実績をあげていく。
伸一の励ましによって、教育部は、新時代の大空に、雄々しく飛翔し、全国津々浦々に、「平和の世紀」「生命の世紀」を開く人間教育の潮流を広げていく。
【「灯台」の章】
仏法は、各人の人格、生き方を通して、社会に輝きを放つ――。社会本部に、社会部、団地部、農村部(現在の農漁光部)、専門部の設置が発表されたのは、
オイルショックの引き金となった1973年(昭和48年)10月の第4次中東戦争の勃発直後であった。いずれも、信心を根本に、社会、地域に貢献していくことを
めざして設置されたものである。伸一は、地域、社会に根を張る社会本部の各部メンバーを、徹底して激励しようと、深く心に決めていた。
77年(同52年)の2月2日には、社会部の勤行集会に出席し、皆が職場の勝利者となる要諦を語る。社会部員は自覚を一段と深め、職場の第一人者として光り
輝いていく。2月17日には、全国のメンバーが集って開催された第1回「農村・団地部勤行集会」へ。会長就任以来、「豊作であるように。飢饉などないように」と、
真剣に祈念し続けてきた伸一にとって、「食」をもたらす農業は、最大の関心事であった。過疎化のなかで農業再生のために「農業講座」や「農村青年主張大会」などを
開催する農村部へ、伸一は“地域、学会の灯台たれ”との指針を示す。一方の団地部は、過密化した居住環境のなかで、潤いのある人間共同体をつくるために献身していた。
伸一は、団地部のメンバーには“幸福への船長、機関長たれ”との指針を贈る。一人ひとりが、蘇生の光を送る灯台となって、社会の航路を照らし出す――そこに、創価学会の使命がある。
【目次】
母の詩/厳護/人間教育/灯台
【各章の概要】
【「母の詩」の章】
1976年(昭和51年)の8月末、山本伸一とフランスの作家アンドレ・マルローとの対談集『人間革命と人間の条件』が発刊された。
また、同月半ばから10月上旬にかけて開催された関西や神奈川など、方面・県の文化祭は、「人間革命の歌」とともに、
人間讃歌の絵巻を繰り広げた。9月5日に行われた東京文化祭に出席した山本伸一は、彼の詩に曲をつけた「母」の歌の調べに耳を傾けながら、
世界中の尊き母たちへ感謝の祈りを捧げるとともに、彼の母である幸を思い、心で唱題した。実は、この日、老衰のため床に就いていた母の容体が、
思わしくないとの連絡があったのである。2カ月余り前、危篤状態に陥り、奇跡的に一命を取り留めた母は、伸一に語った。
「皆さんが待っておられるんだろう。私のことはいいから、心配しないで行きなさい」と。その母の心を体して、この日も、崩れた5段円塔に
再挑戦した男子部員らに励ましの伝言を贈るなど奮闘し抜いてから母のいる実家へ。容体が急変した母の手を握り、80年の来し方を思う。
苦労に、苦労を重ねてきたが、健気に信心に励み、最後に「日本一の幸せ者」と言い切った母。翌朝、母は、安らかに霊山へ旅立つ。
9月14 日、伸一は静岡県の東海研修所に先師・牧口常三郎を顕彰する牧口園を訪問。さらに、10月25日には恩師・戸田城聖の故郷・厚田村に
建設される戸田記念墓地公園の着工式に出席。11月には、北陸を訪問し、石川文化会館に戸田記念室を、富山文化会館に牧口記念室の設置を提案。
関西牧口記念館の開館式にも臨み、歴代会長の遺徳を宣揚し、その精神を伝えるために全力を尽くす。
【「厳護」の章】
青年の育成に全力を注ぎ、常に青年が一切の活動をリードしてきたのが、創価学会の伝統である。伸一は、21世紀まで4半世紀を切った今こそ、
青年の育成に、本格的に力を注がねばならないと考えていた。1976年(昭和51年)晩秋の夜、本部周辺を巡回していた会館等の警備にあたる
「牙城会(がじょうかい)」の青年に出会うと、一緒に建物の隅々まで点検しながら、絶対無事故を期す基本を徹底し、学会厳護の精神を訴える。
11月、登山会の輸送を担ってきた「輸送班」を発展的に解消し、諸行事の運営・整理など、一切の責任を担う「創価班」が発足すると、伸一は、
翌年1月6日に「創価班総会」の開催を提案。この日は、23歳の伸一が、戸田城聖から公私にわたる後事を託された日であることを知ったメンバーは
奮い立つ。77年(同52年)「教学の年」が明ける。新年勤行会終了後、伸一は次々と記念のカメラに納まり、「白蓮(びゃくれん)グループ」の
メンバーも激励。藤色の制服に身を包んだ彼女たちに、民衆奉仕の精神と「冥の照覧(みょうのしょうらん)」への確信を語り、励ます。
一方、聖教新聞の元日付から、伸一の「諸法実相抄」講義が始まり、『大白蓮華』の1月号から「百六箇抄」講義の連載も開始されるなど、
仏法研鑽の息吹が学会に満ち溢れる。伸一は、1月15日に大阪で開催された教学部大会で、仏法の法理を現代社会に展開し、未来創造の新思潮を
形成するため、“宗教のための人間”から“人間のための宗教”への大転回点が仏教の発祥であったことなどを訴える。
【「人間教育」の章】
この1977年(昭和52年)、学会は、広宣流布の主戦場である第一線組織の強化に取り組む。伸一は、各部大ブロック幹部の勤行会に出席し、
仏法への大確信を打ち込んでいく。1月29日の婦人部に始まり、31日には女子部、そして、壮年部、男子部と続き、その流れは、3月に入ると、
ブロック幹部の勤行会へとなっていく。伸一に代わって勤行会を担当する最高幹部との懇談では、全同志の功徳と歓喜の実証こそが、組織強化の
要点であることを訴える。
2月6日夕刻、創価学園生との懇談に続いて、第1回となる東京教育部の勤行集会に出席。創価の源流を継承する教育部が61年(同36年)に誕生して以来、
伸一は、その育成に全精魂を注いできた。総会と聞けば、万難を排して出席し、万感の思いを込めてメッセージを贈った。勇んで立ち上がった教育部員は
それぞれの場で人間教育に奮闘。実践報告大会の開催や体験談集を発刊していく。また、地域では教育相談室を開催し、社会貢献の大きな実績をあげていく。
伸一の励ましによって、教育部は、新時代の大空に、雄々しく飛翔し、全国津々浦々に、「平和の世紀」「生命の世紀」を開く人間教育の潮流を広げていく。
【「灯台」の章】
仏法は、各人の人格、生き方を通して、社会に輝きを放つ――。社会本部に、社会部、団地部、農村部(現在の農漁光部)、専門部の設置が発表されたのは、
オイルショックの引き金となった1973年(昭和48年)10月の第4次中東戦争の勃発直後であった。いずれも、信心を根本に、社会、地域に貢献していくことを
めざして設置されたものである。伸一は、地域、社会に根を張る社会本部の各部メンバーを、徹底して激励しようと、深く心に決めていた。
77年(同52年)の2月2日には、社会部の勤行集会に出席し、皆が職場の勝利者となる要諦を語る。社会部員は自覚を一段と深め、職場の第一人者として光り
輝いていく。2月17日には、全国のメンバーが集って開催された第1回「農村・団地部勤行集会」へ。会長就任以来、「豊作であるように。飢饉などないように」と、
真剣に祈念し続けてきた伸一にとって、「食」をもたらす農業は、最大の関心事であった。過疎化のなかで農業再生のために「農業講座」や「農村青年主張大会」などを
開催する農村部へ、伸一は“地域、学会の灯台たれ”との指針を示す。一方の団地部は、過密化した居住環境のなかで、潤いのある人間共同体をつくるために献身していた。
伸一は、団地部のメンバーには“幸福への船長、機関長たれ”との指針を贈る。一人ひとりが、蘇生の光を送る灯台となって、社会の航路を照らし出す――そこに、創価学会の使命がある。
【目次】
母の詩/厳護/人間教育/灯台